• 三島

感動的なエピソードはもう十分だ/選挙に行こう




カミングアウトについて、これまでの自分の経験を振り返ってみると、特に面白いエピソードがないことに気がつく。


自分のセクシュアリティを誰かに理解してほしい、とか、認められたいといった、特定の相手に対する欲求がそこまで強くないからだと思う。


ある意味でそれは特権的な立場/環境にいることを表しているのであって、誰にも言えない苦しみや、言うことへの恐怖、誰かを好きでいる気持ちを抑えることの辛さを否定しているわけでは全くない。実際に、カミングアウトにまつわるエピソードが私に少ないのは、恐怖ゆえの慎重さがあるからだとも言える――誰を好きか/好きにならないか、自分の性別を告げることへの恐怖ゆえの「慎重さ」?こんな慎重さ、身に付けたくなかった。まったくおかしな話だ。


その苦痛・恐怖の背景には、制度やそれに伴う社会的な抑圧・排除、根強い差別があり、これらをなくしたいという欲求こそ私には強くある。


では、制度はどうすれば変えることができるか?差別はどうすればなくすことができるか?


もちろん、個人の意識改革は必要だ。その一つの手段としてセクシュアルマイノリティ当事者が積極的にカミングアウトをする場合もあるだろう。家族や友人知人、同僚にカミングアウトして、意外と大丈夫だった、あたたかい言葉をかけられた、という話も少なくない。いや、少なくない、というより、そういう話はなんだかもう十分な気がする。不要という意味ではない。そのエピソードによってエンパワメントされる人も多いし、社会的にも意義がある。でも正直、いつまでこれが「感動的なエピソード」として消費され続けるのだろうかと思う。いつまでやればいいのだろう。どこまで「感動」を届ければいいのだろう。気が遠くなる。


アウティングによって、カミングアウトした当事者が自ら死を選択した/させられた事件が起きた。「同性愛の子どもの自殺率」の高さについて笑いながら話していた衆議院議員(自由民主党)や、セクシュアルマイノリティは「種の保存に背く」と発言した衆議院議員(自由民主党)が辞職もせずに済んだ。今年、「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」というただそれだけの、当然そうであるべき文言を巡って自由民主党内で反対の声が上がった。結局法案の提出は見送られた。こんな国、日本で、いまどんな行動が必要だろう。どんなことができるだろう。


今月末、10月31日は、衆議院議員選挙だ。

投票率は例年約5割。選挙権がある人は、どんな社会にしたいか?選挙権のない人と、どんな社会で生きていきたいか?未来を生きる子どもに、どんな社会を残したいか?

ちなみに、先述の両議員は今回も出馬予定だ。

考えよう。そして、選挙に行こう。

#私も投票します #衆院選2021